このブログを書いたり、お仕事で文章を書いたり、阪急電鉄で駅長をしたりする中で、「なんでわたしは文章を書いているのかな~」と考えることが増えました。
そこで思い出すのは、2017年2月にメルマガ「EdgeRank」に寄稿させていただいたときの記事。
EdgeRankは「明日やります」というブログを書かれている奥野さん(@odaiji)という方が中心となって運営されているメールマガジンで、有名ブロガーさん・ライターさんが合同で執筆されています。
そこへひょんなことから記事を書かせていただくことになり、メルマガを読むのはわたしのことを知らない人…ということで自己紹介的な文章を書きました。
ただ、今思い返すに、それまではなんとなくブログを書いていたのですが、その自己紹介を書くことが「文章を書く理由」を改めて意識するきっかけになりました。
メルマガは、登録した人しか見られずバックナンバーもありませんので、個人的な記録としてこのブログに転載させていただこうかな、と思います。
(奥野さん、ありがとうございます!)
初めまして! 大阪人のブロガー「たまみか」です
みなさま、初めまして!
今回、Edge Rankに初めて寄稿させていただきます たまのみか と申します。
「たまみか」と気軽に呼んでくださいませね。
昨年から、『たまみか通信( https://tamamika.com )』というブログを運営しております。
自分で実際に行ってみて良いなと思った場所、食べてみておいしかったもの、なにげなく思ったことなんかを気まぐれに書いています。
わたしは40代の生まれも育ちも大阪人。いわゆる「大阪のおばちゃん」です。
よく典型的な大阪人の特徴として「大袈裟なんじゃないの?」と思うようなことが様々なメディアでおもしろおかしく取り上げられていますよね。
すみません、あれ、ほとんど事実です。
例えば、大阪人はたまたま居合わせただけの知らない人とでも当たり前のように話す、と言われます。あれもほんと。
先日、サンドイッチ店でひとりホットサンドを食べていたときのことです。
あとから来た知らないおじさんがわたしが食べているお皿をのぞき込んで、
「なんや、うまそうやなあ、それ!」
といきなり言ってきました。
そのお店は普通に頼むとそのままの冷たいサンドイッチが出てくるのですが、オプションでホットサンドにしてくれるサービスがあります。
ですので、
「店員さんに頼んだら、トーストしてくれるんですよ。」
とおじさんに教えてあげました。
「そうなんか!」
「プラス50円要りますけど、こっちのほうがあったかいしおいしいですよ。」
「そうなんや、今度からそれにしよ。」
で、会話終了。
知らない人と話しますけど、特にそこからいつまでも雑談が続くわけではないんです。ま、続いちゃう場合もありますがw
他にも、大阪で道に迷っていたら、知らない人が詳しく教えてくれたり、場合によっては目的地へ連れていってくれたりする、なんて言われますよね。
おせっかいという言葉で片づけてしまうこともできますが、要は、いろんな情報をためらわずみんなで共有しちゃおうということなんじゃないかなあ、と思います。
おもしろそう、お得そうな話があれば、自分だけのものにせずに人にも教えちゃう。
お得な情報があれば、知らない人からでも遠慮せず聞いてしまう。
そんなやり取りをしやすいように他人との垣根をついつい低くしてしまう。
古くから町人の街として比較的自由な雰囲気だった大阪の特徴なのかな、と思います。
そして、ブログを始めてみて思ったのは、
「あれ、ブログって大阪のおばちゃんのわたしにピッタリ?」
ということです。
誰かから頼まれたわけでもないのに、
「あのお店、おいしいものが食べれるで。」
とか、
「あそこに行ったら、こんなお得なことがあるんやで。」
等々、見ず知らずの人たちに触れまわってるんですもんね。
その辺り、大阪以外のブロガーさんはどんな感じなんでしょうか。
意外と、ブロガーさんはネット上だけでなくリアルでも、大阪人のようにぐいぐい知らない人にもからんじゃう、みたいな特徴があったりするんでしょうか。
是非ご意見お聞かせくださいw
ブログを書くことによって20年振りの約束を果たしています
大阪人にピッタリ、ということ以外にも、ブログを始めてみて個人的に良かったなと思うことがあります。
それは、「ブログを書くこと=文章を書くこと」だったということです。
実は、わたしは高校時代、文芸部に所属していました。
詩やエッセイ、小説を書いたりする部活動で、年に数回、部誌を発行していました。
自分で頭の中に思い描いたことを文字にして表現する作業はとても楽しいものでした。
一つの作品ができあがり、目の前に積みあがった原稿用紙の束を見る瞬間は、心の底から何とも言えない感慨が込みあがってきます。
だって、世の中に存在しなかったものが物理的に目の前に「モノ」として生まれ出るのですから。
中身は大した作品でなくとも、「わたしがこの世にいなかったらこの物語は存在すらしなかったんだ。」なんて生意気に思ったりもしました。
幸い、高校時代はわたしの小説のファンだという下級生が入部してくれたり、国語の授業で書いた文章を先生が気に入ってくれたりと、それなりに自分の文章が評価される機会に恵まれました。
ですが、文章を書くのはあくまでも趣味。それを職業にしようとは思ってもみませんでした。
文章を書くことでお金を稼げる人なんて、ほんの一握りの才能のある人に過ぎないとも思っていました。
その後、大学へ進学し、社会人になったとき、なんのキッカケかは忘れましたが「公募ガイド」という雑誌があることを知ります。
「公募ガイド」は大小様々な公募に関する情報がまとめられている月刊誌で、標語やネーミングから長編小説まで、いろいろなジャンルの公募情報が扱われてました。
応募をして入賞すれば、記念品がもらえるというささやかな公募から、賞金一千万円がもらえる超有名な文学賞まで、見てるだけでも楽しい雑誌でした。
当時、たまに文芸部時代の友達と気まぐれに書いた作品を見せ合ったりしていたわたしは「公募ガイド」のページを繰りながら、そのうち、「もしかしたらこれくらいならわたしでも応募できるかも…。」なんて思うようになりました。
そして、ある地方の文学賞にターゲットを絞ります。
それは、地方の雑誌社が主宰する賞で、規定枚数が原稿用紙10枚以内という、短編小説としてもかなり短い分量でありながら、賞金が30万円という破格の金額のものでした。たしか毎回の応募人数も千の単位だった気がします。
審査員もみなさん有名な作家の方々で、そのうち一人は萩尾望都さんというメジャーっぷり…。
そこで、まだ若かったわたしは、なぜか目標を賞金30万円の「大賞」ではなく、次点の「準大賞」に定めます。
その一番の理由は、「書こうと思った内容が一般受けしないストーリーだったから」。
地方の文学賞で喜ばれるようなわかりやすい物語ではないけれども、今の自分の実力なら次点は狙える、という妙な自信と慢心。
ですが今思うと、実際はそれとは裏腹の自信のなさからくるものでした。
大賞に選ばれなくても、そこは狙ってなかったもんね、と言い訳できる理由を探していたのかもしれません。
そして、結果は「大賞」でも「準大賞」でもなく「佳作」。
数人選ばれた佳作の中でも順位は1位でしたので、最終的には全体で3位ということだったのですが、電話で結果を聞いたときは現実を突きつけられたような気がして、思った以上にがっかりしました。
自分の能力がないことは薄々わかっているのに、妙なプライドだけはあったんですね。
授賞式にも誘われましたが、7万円ほどの交通費・宿泊費を自己負担しないといけないということに加えて、「佳作」に過ぎないのにのこのこ出ていくなんて…と辞退。
今思うと、夜な夜な萩尾望都さんとお酒を酌み交わしながら話ができる機会だったのに何で行かんかった! と若かった自分をとっちめてやりたいですw
(授賞式は東北の山奥のホテルに全員泊まり込んで行われるという、世間知らずの小娘にはハードルがちょっと高いものでもあったのです。ちょっと言い訳。)
その後、しばらく文章は書いていましたが、書けば書くほどうっすらと感じる自分の文才のなさ、語彙力のなさ。
そのうち、小さな小さなラジオドラマの脚本の公募に応募したところ、運よく優勝し、実際ラジオドラマとして放送される機会に恵まれました。
ですが、プロのディレクターさんに現場でどんどん自分が書いたシナリオを意図しない方向へ修正され、「必死で書いたのに。」という気持ちと「自分の実力では伝えたいことが伝わっていないんだ。」としみじみ感じさせられるのとで、収録が終わるころにはものすごく疲れ切っていました。
そして、収録の最後に「作者のインタビュー」として数分間、自分の声で話す時間がありました。
何を話したのかほとんど忘れたのですが、最後の質問だけは覚えています。
これからどうしたいかということを聞かれたときに、わたしはこう答えました。
「これからどういう道へ進むのかはわかりませんが、文章を書くことだけは続けていきたいと思います。」
それからしばらくはパラパラと書いたりもしていましたが、なんとなく抜け殻のような気持ちで身が入らず、そのうち、転職したり結婚したりと時が経つなか、全く文章を書くことはなくなりました。
そして昨年、ふとしたきっかけでなにげなく始めたブログ。
深く考えずに始めたのですが、自分の好きなことを書いていくうちに、「ああ、そういえば昔、わたしこういうことをしていた…!」とすっかり忘れきっていたことを懐かしく思い出しています。
なにもなかったところから自分の頭だけで「モノ」を作り上げていく喜び、そして、それを自分以外の人へ伝える喜び。
「これからどういう道へ進むのかはわかりませんが、文章を書くことだけは続けていきたいと思います。」と自分から口にした約束が果たせないまま、ずっと心のどこかにひっかかっていましたが、今ようやくそれが実現しているなと思っています。
今月の共通テーマ「まめ」
小学校の2年生の頃でしょうか。
体育の授業で鉄棒を習ったときのことなのですが、腕の力が弱かったわたしはどうしても「逆上がり」ができませんでした。
元々あまり体育は得意ではなく、その自覚もあったので、普段ならできなくても気にしないのですが、なぜか逆上がりだけはできるようになりたいと思った幼いわたし。
放課後、グランドの鉄棒でひとり、毎日練習をしていました。
夜になると、ずっと鉄棒を握っていた手が痛くて、でも、それまで努力というものをしたことがなかったわたしは、ちょっとその痛みを新鮮に感じていました。
何日かたったある日のこと。
ふと手を見てみると指の付け根が黄色っぽくなってることに気が付きました。触ってみるとそこだけ丸く皮膚が浮き上がったようになっていて、表面が硬くなっています。
不思議に思ったわたしは父親に「手の痛いところ、こんなんなってる。」と手を見せました。すると父親は「なんや、マメができてるやないか。」と答えました。
「マメができる」という表現をまだしらなかったわたし。頭の中は「豆? 手に豆ができる??? 豆みたいに丸くて硬いのができてるから?????」と謎だらけになりながらも、さらに新鮮なうれしい気持ちになったのでした。
ちなみに、逆上がりはその後、ある日急にできるようになりました。練習しているうちに筋肉が付いたんでしょうか。継続は力なり、ですね!
編集後記
長い長い自分語りになってしまいましたが、最後までお付き合いいただき、ありがとうございます。
またこの度、Edge Rankへの寄稿という貴重な機会を下さいました、奥野さん、ヨスさん、関係者のみなさま、ほんとにありがとうございました。
普段のブログとはちょっと違う文章を書かせていただき、とっても楽しかったです。
よろしければ、『たまみか通信』( http://tamamika.com )にも遊びにいらしてくださいね。
オススメのお店紹介や特定の地域についての情報が多いのですが、たまに読み物的なものも書いています。
たとえば、このあたりの記事なんか読んでいただけると、「この人何やってんの…」と楽しんでいただけるかな、と思いますw
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カルビー・サッポロポテトの歴史【牛乳がけ 序章】( https://tamamika.com/sappropotato-about/ )
カルビー・サッポロポテトのちょっと変わった食べ方:冷たい牛乳がけ( https://tamamika.com/sapporopotato-with-milk/ )
カルビー・サッポロポテトの究極のレシピ:牛乳がけ なおかつ 砂糖添え( https://tamamika.com/sapporopotato-with-milk-and-suger/ )
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それでは、みなさまとまたどこかでお会いできますように!
ご拝読ありがとうございます…
この記事に合わせて、それまでなかったプロフィール記事をブログに書いたのですけど、実は表裏一体になっています。
プロフィール記事は表で、メルマガの記事が裏。
文章を書くということは、いろいろ悩みもつきませんが、これからもぼちぼちやっていこうと思います!