今年(2018年)の1月17日で、阪神・淡路大震災から23年。
長い年月が経ち、わたしが住む大阪でも、普段の会話の中で震災の話が出ることも減り、メディアなどで取り上げられることも以前に比べると少なくなりました。
社会に出て活躍している人の中には、震災当時まだ子どもだったり、震災後に生まれて、あのときどういうことがあったのか、あまり知らない人も多いのかも。
ですが、1月17日が近づくと、わたしはどうしてもあの頃のことを思い出してしまうんです。
わたし自身は幸い身内に犠牲になった人もいませんし、家が倒壊して避難生活をしたり、という経験もありません。でも震災のときに見たこと、感じたことは、この先忘れることはないんだろうな、と思います。
今回は、そんなわたしの「被災地の一番端っこで経験したこと」を記録として書いてみようかな、と思います。少し長いですが、よろしければ最後までおつきあいください。
一番東の端で体験した阪神・淡路大震災
当時私が住んでいたのは大阪府豊中市。大阪市のすぐ北側にあり、大阪のベッドタウンとして栄えてきた街です。
豊中市は兵庫県との県境に位置していて、すぐお隣は兵庫県の尼崎市や伊丹市。
阪神・淡路大震災ではその被害のほとんどは兵庫県内に集中しています。ですが、豊中市でも亡くなられた方が11人、15,000軒を超える住宅が全半壊する被害がありました。
ただ同じ豊中市でも、東部では大きな被害もなく、友達の中には寝ていて揺れているのに気がつかなかったという人もいるくらい。
わたしは県境に近い市内の西部に住んでいましたので、阪神・淡路大震災を被災地の一番東の端で経験したことになるのかな、と思います。
その瞬間
震災の当日、数日前に梅田の人込みで風邪をもらってきてしまったわたしは、他の家族にうつしてしまわないように、同じく風邪をひいていた母親と同じ部屋で寝ていました。
夜中になんとなく目が覚めて、母親も目覚めていることに気がつき「あれ?」と思った次の瞬間、ものすごい轟音とともに下から突き上げられ、部屋が大きく揺れだしました。
真っ暗な中、何が起こっているのか全く分からず、戦争なのか、天変地異なのか、理由はわかりませんが、今暮らしている世界が終わるんだ、と思いました。
大地震の揺れは揺れるというよりも振り回されるという感覚で、それがどんどんひどくなっていつまでも終わらず、地響きなのか、建物のきしむ音なのか、ものすごい音の中でなにもすることができませんでした。
隣にいた母親ときつく抱き合いながら、「ああ、(いつか来るとは思っていた)死ぬ時が来たんだ。できれば痛い思いや苦しい思いをせずに死ねればいいけど。」とただただその最期のときを待ちました。
このまま建物が崩れて、そのまま下敷きになるのだろうと考えていたのですが、しばらくすると徐々に揺れが静かになり、ついには収まって、揺れも轟音もない普通の世界が急に戻ってきました。
その瞬間、「今のなに???」と口にしながらも、今のはもしかしたら地震だったのかもと初めて気がつきました。
大地震の後で
真っ暗な中、なんとか家族の無事を確認した後、「気をつけないと揺れ戻しが来るよ…!」と身構えます。
ほどなくして、地響きとともにまた大きな揺れがやってきましたが、混乱した家の中ではなにもできません。これほど大きな地震の後の揺れ戻しがどんなものかわからず、とても怖い気持ちでしたが、さすがに本震ほどではありませんでした。
揺れが収まってすぐ、とにかく避難しなきゃ、といったん家族と家の外へ出ました。
視力の悪いわたしは普段コンタクトかメガネがないと生活できないほどなのですが、枕元に置いていたメガネがどこに行ったのかさっぱりわからず、ぼんやりした視界の中で倒れた家具などをまたぎながら、あの恐ろしい揺れのせいで、きっと外は壊滅的な状態なんだろうと考えていました。
頭の中で、道路には地割れが入り、あちらこちらから火の手が上がったりしていて、早く逃げないと火災に巻き込まれるかもしれないと想像していて、今思うと少しパニックになっていたのかもしれません。
ですが、実際外に出てみると周囲は普段とそれほど変わらないように見え、街灯もついていて電気も通っているようで、同じように外へ出ていた隣りのひとり暮らしの女性と「大丈夫でしたか?」などと言葉を交わしているうちに、ようやく気持ちも落ち着いてきました。
すぐにこの場を離れなければいけないという緊迫した状況ではないことがわかり、とりあえず家の中に戻って落ち着こうということになり、部屋の電気をつけてあらためて家の中を見渡して、まず途方にくれました。
とにかくいろんなものが棚から飛び出してきてめちゃくちゃで、わたしが寝ていた場所には20インチ以上の大きなブラウン管テレビが飛んできていました。
無意識のうちによけていたようで、「あれが直撃したら死んでたかも…。」と部屋の真ん中に転がっているテレビを見ながらぼんやり思ったことを覚えています。
とにかく今の状況がわからないので、テレビを元の場所へなんとか戻してNHKをつけました。なんとかメガネも探し出し、眺めたテレビの画面では、いつもどおり大阪のスタジオから当たり前のようにいつものアナウンサーさんがニュースを読んでいて、とても不思議な感じがしました。
大きな地震が起こったというニュースは流れていましたが、詳しい状況がまだわからず、震源地やマグニチュードはまだ不明で、兵庫県と大阪府以外の震度だけが表示されていた気がします。
当時は今のように小さなエリアごとの震度の測定がされておらず、表示されるのは近畿地方全体で15カ所ほど。
そのうち、大阪の震度が4と発表されたときには「それはないやろ。」と家族中でニュースに突っ込んだのを覚えています。(最終的には豊中市の震度は震度5弱から6弱と推測されています。)
とりあえず、そのままニュースを見ながら少しずつ部屋を片付けていましたが、神戸の震度がいつまでたっても表示されず、いったい神戸はどうなってしまったのか、神戸の人はどうなっているのか、想像するととても恐ろしい気持ちでした。
それと同時に、「いかりスーパー」が無くなってしまった、三宮の高架下にあった果物屋さんにいつもいた猫はどうなったんだろう…そんなことが頭の中に浮かびました。
神戸がなくなってしまった。
そんなふうなことをぼんやり考えながらふと窓の外を見ると、それまで真っ暗だった空がうっすらと明るくなっているのに気がつきました。
こんな時でも朝ってくるんだなあ、としばらく片づけをする手を止めて外を眺めました。
当たり前のような当たり前でない景色
朝の8時半ごろでしょうか。わたしはとりあえず、外の様子を見に行こうと外へ出ました。
家を出てすぐ、街の異変に気が付きました。
まっすぐ立っているはずの電柱が大きく傾き、電線がたるんでいました。ふとそのそばの家に目を移すと、壁に大きくひびが入り、土塀が崩れています。
その後もブロック塀が崩れていたり、灯篭が倒れて道路に転がっていたり、普段は考えられない景色が続きましたが、でもそういうものを見てもなぜか驚きはしますが、衝撃はうけません。
建物の1階部分が完全に崩れて、地面に2階と屋根があるのを見ても、あ~、あの家崩れちゃってる…と妙に冷静で、わたしと同じように、どこか居心地が悪そうに歩く中学生が、おそらく臨時休校だったのか学校と逆の方角へ向かってブラブラと歩いていました。
壁面に貼られていたタイルがばらばらと崩れ落ちている家や、ゆがんだ建物、1階の駐車場が崩れて車が下敷きになっているマンションなどなど…。
ただ街の中はとても静かで、頭にガーゼを張り付けたおじさんが家の玄関の前でぼんやりたたずんでいたりと、みんなが何をすればいいのかわからないような、不思議な静けさが漂っていました。
繁華街に出ると、オフィスビルのガラスはすべて割れ、ゆがんだ窓枠からはブラインドが外へ垂れ下がっていたり、国道にかかる橋の継ぎ目には大きな隙間ができていたり。
それでもまるで当たり前のように車が走っていたり、自分自身も当たり前のようにそんな景色を眺めているのがとにかく不思議でした。
もっと不思議だったのは、昼間に隣の箕面市にあるホームセンターへ行ったとき。ほんの5kmほどしか離れていないのに、全くと言っていいほど建物などに被害がなく、そこには全く普通の生活がありました。わたしがその日の朝にいたのは、ほんとに被災地の端っこだったのです。
震災当日は、とにかくその日の晩に家で寝ることができるようにずっと家を片づけていました。
断続的に続く余震にずっとドキドキしながら、家じゅうの散乱したものをとにかく片付け、そのときにいろんなものを捨てました。
それまでは物を捨てられない性格でしたが、急に物欲なんてなくなって、大事にとっておいた学生時代の教科書や、なんとなく置いてあった雑貨などもかなり捨てました。
それから、怖くて家にいられないので家じゅうの家具をホームセンターで買ってきたL字の金具で壁とがっちり固定しました。
食器棚が倒れてしまったので、ほとんどの食器が割れて使えなくなり、なんとか残った食器を、昼過ぎに断水から復旧した水道で洗いました。
洗いながら、NHKのニュースに出ていた地震の専門家の「日本列島が活動期に入ったのかもしれない」というコメントが聞こえてきて、この先ずっと、地震にびくびくしながら暮らしていかなきゃいけないのか、と絶望的な気持ちになって、ぽろぽろと涙が出てきたことを覚えています。
ですが、次の日からだったと思うのですが、震災の恐怖を煽るような報道が多かった民放テレビと違い、NHKではあえて前向きな表現をするように変わった気がします。あの変化には、ほんとに救われた気がしました。
それから
わたしがいたのは被災地のほんとに端っこでしたので、恐ろしい思いをしたということ以外は、いつの間にか額にこぶができていたことぐらいで、直接的な被害は食器などのものが壊れただけですみました。
さいわい住んでる建物も無事でしたし、一瞬水道が止まりましたがすぐに復旧し、電気もガスも止まることはありませんでした。
ただ地震の直後だけ繋がっていた電話がしばらく不通となり、数日間遠くと連絡をとることができませんでした。当時は携帯電話が普及していませんでしたので、遠くの友達と連絡がついたときはホントにほっとしました。
地震の後、会う人会う人と、まずは「地震大丈夫だった?」があいさつ代わりで、それぞれのその時の体験を語り合っていました。そんなあいさつは震災の後、何年も続きました。
揺れがおさまって気がついたら、壁の隙間から空が見えていたと言っていた人、倒れてきた家具と壁の間にできた隙間にいて助かったという人。寝ていた場所にテレビが落ちていたわたしも含め、ほんとに大けがや死と隣り合わせだったのかもしれないと思ったりしました。
そんな中でふと思ったのは、震災で大事な人が犠牲になった人の気持ち。
毎日、新聞には見開き数ページを使って犠牲者の情報が載っていました。
はじめのうちは、学生時代の友達が載っていたらどうしようと見ることができませんでしたが、しばらくして勇気を出して見てみると比較的高齢の方が多いことに気が付きました。
いざというとき、もしかすると人は無意識のうちに自分の命を守っているのかなあ、と思ったりします。震災で命を落とした人は、高齢でそれができなかった人や、瞬間的に身を守ることすらできなかったほど自然の威力が残酷な状態だった人なのかな、と。
だから、助けられなかった自分のことを責めないでほしいな、とぼんやりと考えたりもしました。
豊中市は被災地の東の端であり、西の端までの交通機関が被害を受けていたので、近くの幹線道路には復旧工事のための大きなダンプトラックが行き交い、その重みからアスファルトはすぐにガタガタになりました。
また、豊中市は深刻な被災地から近いながらも、一部を除いて比較的被害も少なかったので、神戸から避難してくる人も多くいました。
公園や空き地など、建物のたっていないすべての広い土地にはプレハブの仮設住宅が建てられ、それから数年、そういう状態が続きました。当時子どもだった人の中には、広い公園で遊べなかった人もいるかもしれません。
高架の上を走る電車から眺める街並みは、パッチワークのようにブルーシートで覆われ、その後、地震で倒壊したり一部壊れた建物は軒並み建て替えられました。
古い日本家屋はなくなり、新しい家が建ち、瓦葺の建物は消えてスレート葺へ、街並みは大きく変わりました。
近くの、建物の崩壊の多かった地盤の弱かった地域は、水道やガスの復旧工事がなかなか終わらず、その一角から住む人がいなくなり、ゴーストタウンのようになっていた場所もあります。そのあたりは、この5年ほどでようやく昔のにぎわいが戻ってきた気がします。
阪神淡路大震災が起こる前だったか起こってちょっと経った時だったか…。
できたての文芸関係の同人サークルに入ってたのだけど、神戸に行った主催者の男の子が被災地の状況にショックを受けて、震災ボランティアに専念するから、とそのままそのサークルが解散になった思い出…。— たまのみか@きままな大阪人ライター・ブロガー (@tamanomika) 2018年1月12日
当時は物見遊山で被災地に行くもんじゃないと思ってたし、部外者がでしゃばるのも違うと思ってた。(当時は今のように震災即ボランティアというシステムがなかった時代です)けど未だに、あの時神戸に行けば良かったのかなとたまに思う。それぞれにそれぞれの役割があるから、と思ってはいるけど。
— たまのみか@きままな大阪人ライター・ブロガー (@tamanomika) 2018年1月12日
震災後は、あちらこちらの谷筋が土砂崩れで白っぽく見える六甲山の山並みを眺めながら、それでもわたしは被災地の端っこで、比較的通常通りの生活をしていました。
そして、震災の年の4月1日だったと思います。
震災後初めて阪急電車の神戸線に乗る機会がありました。
十三駅の神戸線のホームに入ってきた列車は、いつもピカピカのはずの阪急電車なのに、ガラスも曇ってあまり掃除がされておらず、床は乾いた泥で一面真っ白になっていました。
神戸線にはひと駅しか乗りませんでしたが、そのままこの電車に乗っていったらどんな景色が広がっていたのか。
自分はほんとに被災地の一番端っこにかすっていただけで、ほんとの被災地にはいないんだということを強く実感しました。
その日の帰り、またきれいな宝塚線に乗り換えてふと窓の外を見上げると、その日ようやく復旧した新幹線が高架の上を走っていくのが見えました。
それは、自分の周りだけ、普段の生活が戻ってきていると思った瞬間でした。